岩波書店
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発売日:2006-03
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小さく「された」ものの側に立つ神と聖書を語ってくれる
(2007-10-13)
神は貧しく小さい者といるのではなくて、貧しく小さく「された」人といると、筆者である本田哲朗神父は説く。では、小さくされた者とは誰か。現代の日本ではホームレスや日雇い労働者たち、本書では書かれていないが、ネットカフェ難民なども含まれるのだろう。聖書の中では、羊飼いや大工、漁師、テント職人などだった。どうして、羊飼いや漁師さんたちが小さくされた人たちなのか?という疑問が浮かぶかもしれない。新約聖書の時代のイスラエルは牧畜文化ではなく、農耕文化になっており、畑を横断する羊飼いらは邪魔ものだった。そして、ここからが重要だが、羊飼いは安息日に一定距離以上移動してはならないという律法を守ることが職業上できない。だから、ファリサイ派や律法学者から見れば、彼らは罪人である。また、血を扱うために、漁師やテント職人(当時のテントは動物の革だったので血に触れる)も罪人とされた。イエスの弟子には徴税人などの罪人がいると書かれているのはたいていのクリスチャンならご存知だと思うが、実はぺテロやアンデレの職業であった漁師もまた罪人なのであった。パウロがテント職人だったことも、彼もまた小さくされた側だったことになる。大工も、木工大工ではなく石切大工であり、絶えず粉塵を吸う危険性の高い職業だったため貧しい人がなる職業だった。主イエスもまたそんな貧しい大工の子だった。神はまさにそのような小さくされた貧しい人の側にいるのである。筆者は、そのような視座から聖書を読み直し、ヘブライ語やギリシャ語の聖書原典を通して、小さくされたものの側からの聖書を伝えてくれる。
ところで、キリスト者はそのような小さくされている者に伝道してと考えてしまうが、筆者からすればそれは、上から彼らを見下ろした視点であり、差別性があると指摘する。逆に、小さくされているものを通して福音が働くと言う。大切なことは、キリスト教を広めることではなく、福音が実践されること。極端な話、キリスト教でなくても良いのだ。そこに福音がなければ意味がない。
キリスト者ではなくてもぜひ読んでほしい一冊。
本を読んで表紙の絵の深さがわかりました。
(2007-01-28)
以前、朝日新聞の宗教の特集で著者のことを知り、この本を拝読しました。
主に講演を基に成り立っている本ですが、釜が崎での体験に裏打ちされた一つ一つの言葉は説得力を持ち、この場にただ安穏と生活してはおられない気持ちにさせられます。
僕は、キリスト教徒ではありませんが、「キリスト教を広めることよりも福音を広めることの方が大切」と言い切る著者には本物の宗教家の姿勢を感じました。
炊き出しに並ぶ主イエス
(2007-01-02)
著者はフランシスコ会の司祭で、大阪・釜ヶ崎で日雇い労働者と共に働き(慈善事業ではない!)、本書でも述べているように、彼らから教えを乞い、連帯する歩みをしておられる。
表紙はアイヘンバーグという画家の絵で、炊き出しに並ぶ主イエスを描いている。「助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいて」いるのではなく、「むしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩と共に立って」いることを画家は見抜いている、と著者は述べている。そして、このことは「T ある出会い」においては、「イエスを筆頭に、罪人の仲間と見下げられる者たちが、当時の社会の周辺に追いやられていました。その人たちこそ福音を伝える者、イエスが派遣した者であり、その人たちこそ預言者であり、解放をもたらす義人なのだ、とイエスはいうのです」(pp,37)と展開されている。解放をもたらす力を持っているのは、何よりも貧しく小さくされた人々であり、彼らこそが解放の主人公だと著者は言うのである。
これと関連して著者は大事な指摘をしている。私たちは社会において抑圧されている人々について「相手の立場に立とう」と考えてしまう傾向があるけれども、著者は「相手を理解しようと思ったら(中略)英語のunderstand(理解する)・・・つまりStand Under Others、相手よりも下に立つことです。同じところに立てないのですから、教えてくださいっていう学ぶ姿勢を持つことです」(pp,54)と述べておられる。
主に、釜ヶ崎での体験を基調として話が語られているが、それだけでなく世間にある日雇い労働者・野宿者への誤解・偏見の温床、そしてそれを助長する社会構造への批判も語られている。それは、著者が日雇い労働者の中に入っていって、共に歩みをおこしていったから言えたことだろう。彼らの感性に学ぶ、それが必要だと著者は言う。
また、本田神父の聖書の読み方には、多くの示唆がある。本田神父の訳した、福音書・使徒言行録、ガラテヤ書・ローマ書、コリント書、パウロの獄中書簡は、全て、低いところに働いておられる神について語られており、貧しく小さくされた人々の視点がふんだんに取り入れられている。それは原文を大切にし、聖書が誰に対して語られたかを著者が大事にしたためのものであろう。
日雇い労働者の現場の話、小さくされた人々の側に立つ神という視点からの聖書の読み方、キリスト者だけでなく、広く多くの人が、手に取ってほしい本である。
小さくされた者こそ
(2006-11-15)
「小さくされた者」という表現は、著者が永年使っている言葉です。
小さくされている人たちの側に立たなければ、
小さくされたものたちに敵対するものになってしまうのだ、
社会構造的に追い詰められた状態にある人と連帯しないなら、
それは、その人たちが抑圧されるようにできている社会を肯定することになるから。
という指摘に、深くうなずかされるとともに、胸がどきどきとしてきます。
聖書には「マラナ・タ」と書いてあります。
主よ、来てください。という意味です。
神は、全ての民を公平に裁くといわれます。
その時僕は、神様の側に立っていることができるでしょうか。
神様の側に立つ。その方法は、この本に書かれています。
これこそあるべき宗教の姿だ
(2006-10-17)
今年読んだ本の中で最高の1冊です。
私は常々、実際の生活の側から、実践の側から宗教を見ていかなければ意味はないのではないかと考えてきました。しかし、実際に書店に売っている宗教書は、教会にこもってしまった人や、浮世離れした人が書いたものばかりであり、私としては、物足りないような、歯がゆいような思いをしてきました。
そんな中、偶然この本に出会い、これこそ私の求めていた本だと確信しました。聖書、キリスト教の精神を著者のような形で実践することはなかなかできることではありません。著者は、神父でありながら、人から「よい子」と見られるか否かという価値基準を捨てることができませんでした。そのような中、釜ヶ崎での活動を通して、神やイエスが「小さくされた者」の側に立っていることに気づき、聖書もまたそのような観点から書かれているのだということを発見するに至までのストーリーには感動と畏敬の念を抱かざるを得ません。
「どうせ宗教の本だろう」と敬遠してしまうのはあまりにももったいない。全ての日本人に読んでもらいたい本です。




